
「性悪説」は、「人の本性は悪であり、それが善になるのは人間の意思で努力するからである」という、荀子(じゅんし)が説いた教えです。
不確かな理解のもとで、「性善説」と「性悪性」のどちらが正しいかなどと議論されたりしていないでしょうか。
また、キリスト教の理解や海外企業とのつきあいにおいて、荀子の教えとは異なった形で「性悪説」が解釈されることも少なくありません。
ここでは、荀子の説く「性悪説」の本来の意味や考え方に加えて、「性善説」との比較などを解説しますので、参考にしてください。
1.「性悪説」の意味
1-1.人は本来弱く、努力することによって「善」を獲得できる
性悪説
読み方:せいあくせつ
意味:古代中国の思想家「荀子」の教え。
「人の本性は悪であり、努力することによって善を獲得できる」と説いた。
「性悪説」の「性」は「天から与えられた人の本質」のことで、「悪」は「悪い」ということではなく、「弱い」という意味です。
つまり、 「性悪説」は、「弱い存在で生まれつく人間は、自分の意思で学問を修め、努力することによって後天的に善を獲得できる」ということを説いています。
1-2.「性悪説」は荀子(じゅんし)の教え
荀子は儒教の思想家で、古代中国の戦国時代末期に生きた人です。
荀子は、諸子(しょし)によって様々に展開された中国古代思想の集大成を行った人物とされています。
一方、荀子は儒教の思想家でありながら、孔子やその後を継いだ孟子を批判したため、当時は、異端者とみなされていました。
2.「性悪説」における考え方
- 人の育ちは環境次第
- 学びが高まると視野が広がる
2-1.人の育ちは環境次第
蓬(よもぎ)も麻中(あさなか)に生ずれば、たすけざるも直し
(よもぎは元々曲がりくねって育つものであるが、まっすぐな麻の中で育つと、自然にまっすぐになる)
人は生まれつき誤った道に進みかねない欲望を持っているが、それは教育(環境)によってコントロールできるという考え方です。
荀子の思想には、人の欲望(弱さ)を率直に認める、冷静な観察眼があります。
そして、そこに止まらず、希望を失わない、前向きな姿勢が見られます。
「後天的な環境が先天的な弱さを克服する」といった考え方は、現代に生きる我々にも、背中を押してくれる有効な思想です。
2-2.学びが高まると視野が広がる
つまだちて望むは、高きに登るのひろく見るにしかざるなり
(遠くを見ようとするとき、つま先立ちをするが、高いところに立つほうが眺望が良い)
「高きに登る」は、「学びを高める」という意味であり、荀子は、教育の重要性を説いています。
人間は生涯学び続けることによって善に至らなければならないとし、学問はやめてはいけないと説いています。
日常の多忙の中で、学ぶことを忘れがちな現代のビジネスマンにとっても、心に留め置きたい言葉です。
3.「性悪説」の間違った解釈
「性悪説」は、 「ものごとを懐疑的に見ること」や「救いようのないこと」を説いていると誤解されることがあります。
以下に、典型的な「性悪説」の間違った解釈の例を解説します。
3-1.海外企業との取引は「性悪説」に立たないと失敗する
現代のビジネスシーンにおいて、取引の方針を決めるときなどに、「性悪説に立って考える」という表現を使うことがあります。
このとき我々は、「性悪説」を「相手を悪人だとして疑って接する態度」と解釈して議論していることになりますね。
また、「日本国内で事業をするときは性善説でも大丈夫だが、海外と取引をするときには性悪説に立たないと失敗する」といった意見が出されることもあります。
これらの考え方の背景には、欧米が徹底した契約社会であることや、考え方の根底に個人主義があることなど、文化的な違いによる摩擦が潜んでいます。
しかしながら、「性悪説」は本来「後天的な学びの重要性」を説く思想であって、このような 「懐疑論」は「性悪説」の間違った解釈なのです。
3-2.キリスト教における「原罪」の教えは「性悪説」と同じ
キリスト教の教義に「原罪」があります。
キリスト教の 「原罪」とは、「人は生まれながらに罪を背負っており、その罪からの解放は神の恩恵のみである」とする考え方です。
これをもって、 「キリスト教は性悪説の立場に立っている」とする考え方がありますが、これは「性悪説」の間違った解釈です。
また、キリスト教の「原罪」では、「人は罪を背負っている」としていますが、「性悪説」では、「人は弱い」としています。
「弱い」ことは、必ずしも「罪を背負っている」ことではありません。
ビジネスシーンでキリスト教の「原罪」が語られることは少ないですが、現代人の基礎的な教養として理解しておきましょう。
4.「性善説」との関係
「性悪説」と「性善説」の大きな違いは出発点です。
すなわち、人の本性を「悪」と見るか、「善」と見るかの違いです。
孟子はどちらかといえば理想主義者でしたが、対して荀子は徹底した現実主義者であり、現代でいうリアリストでした。
孟子は「天命(天から人に与えられたなすべきこと)」を重視しました。
その一方、荀子は現実的な「人の規範(現代の法律に近いもの)」を重要と考えました。
4-1.「性善説」と「性悪説」の求めるところは同じ
「性悪説」と「性善説」は、考え方の出発点こそ違いますが、ゴールは同じです。
どちらも「学び(教育)によって、立派な人になることができる」と説いています。
5.「性悪説」の英語表現
「性悪説」を英語で表す際には、以下のような英語表現が使われます。
- belief that human nature is fundamentally evil
- the ethical doctrine that human nature is fundamentally evil
「evil」は、「悪」を意味する単語です。
また、「ethical」は「道徳上の」という意味の形容詞であり、「doctrine」とは「教義・主義・学説」などを表す名詞です。
「性悪説」を英語で表現する場合には、一般的に 「説」を表す英語表現である「~ism」は用いられません。
まとめ
「性悪説」は、 「人の本性は悪であり、それが善になるのは人間の意思で努力するからである」という、古代中国の思想家・荀子が説いた教えです。
「性悪説」と「性善説」の決定的な違いは、人の本性を「悪」と見るか、「善」と見るかです。
しかしながら、両者のゴールは同じであり、「人は努力(学び)によって立派な人になり得る」と説いています。
現代社会において、「性悪説」も「性善説」と同様、間違った解釈で議論されることがあります。
「性悪説」は、遙か昔の中国で生まれた思想です。
しかしながら、「学び続けることの重要性」や「後天的な環境が先天的な弱さを克服する」といった考え方は、現代人にも有効な人生訓となり得ます。
間違った解釈を見直すとともに、今一度、古(いにしえの)の言葉の強さを噛みしめてみてはいかがでしょうか。